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【高校野球】85年’甲子園史に残る熱い旋風 滋賀「ミラクル甲西」

1985年第67回全国高校野球選手権大会「ミラクル甲西」 高校野球ナビ
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2023年 夏の甲子園は、エンジョイベースボールの「慶應」が107年ぶりの優勝。

元プロ野球選手の清原和博さんが、慶應のご子息を応援している姿が話題になりましたね。

甲子園球場に響く「代打 清原くん」というアナウンスは、ゲームの流れを変えてしまうほどの大きなどよめきを誘いました。

「清原」という名前にとてつもないパワーを感じます。

わたしは「清原/甲子園」というワードをセットで見聞きすると、どうしても「PL学園」を思い出します。

若い世代にとっては「プロ野球のビッグネーム」の息子さんとして注目される一方で、80年代を見てきた世代の『清原』という名前は「怪物高校生」としての印象が非常に強烈に残っています。

それはこの舞台が『甲子園』だということもあってなおさらです。

「甲子園は清原のためにあるのか

そんな名調子が植草アナ(朝日放送)によって叫ばれたのは、1985年(昭和60年)第67回全国高校野球選手権大会、もう38年前の話。

その言葉に日本中がうなずいてしまうほど、清原さんの活躍は凄まじいものでした。

打球音の迫力と驚異的な打球速度、更にはスタンド中段まで到達するとんでもない飛距離。

初めは驚嘆していましたが、大会が進むにつれ、もはや「既にプロ野球選手では?」と思わせる実力差に、ただただため息をつくばかり。

現在まで見てきた甲子園球児の中でも圧倒的に異次元な存在で、「スーパー最強バッター」と言える存在です。

━今回の本題は、そんな清原さんと同じ世代の学校の話になります。

怪物高校生の清原さんが甲子園で活躍した1985年(昭和60年)は、公立代表校がまだ数多く出場している時代でした。

全国49代表のうち公立高校は26校、半分以上がそうです。

今では改名で少なくなりましたが、県立◯◯商業や◯◯工業、◯◯商工など、まるで企業名のような学校がたくさんありました。(◯◯は地元の土地名です)

年代回数公立高
1985年第67回26校
2022年第104回11校
2023年第105回9校
出場した公立高校の数

しかし、この頃から高校野球界に大きな変化が訪れます。

地元校への進学ではなく、強豪私立への野球留学」という傾向が急速に広がりつつあった時代でもあったのです。

野球留学とは

県外の有力な中学生をスカウトし、部の戦力強化を図ること。1978年(昭和53年)の第60回大会、1県1代表制になった頃からよく見られるようになってきた。

そんな高校野球変遷時代の中で、この大会に初出場を果たした「滋賀県立甲西高校」は、開校/創部3年目だったことで話題に取り上げられます。

「野球留学」に対して不満を持つ大人が増えてきた時代に、初々しい雰囲気が漂う田舎の公立高校生チームは、そんな人々からの声援も受けるようになっていきました。

この大会では「ヒゲの源さん」の愛称で親しまれた奥村源太郎監督と公立甲西ナインが、見事なまでの逆転劇を繰り返し、大会のもうひとつの顔になるのです。

「ミラクル甲西」として甲子園にさわやかな旋風を巻き起こし、その活躍は今でも多くの野球ファンの心に鮮烈な印象を残しています。

1985年はこんな時代
  • 阪神タイガース初の日本一
  • バース&落合三冠王
  • 日本の人口1億2千万人突破
  • 日航ジャンボ機墜落事故
  • 豊田商事会長刺◯事件
  • 携帯の前身ショルダーホン発売
  • 松田聖子と神田正輝の結婚
  • 中森明菜全盛期
  • おニャン子クラブデビュー
  • アニメ「タッチ」放送開始
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「ミラクル甲西」大活躍!

甲西高校が甲子園初出場を決めると、近隣の子供から大人たちまで、みんな学校に集まって練習を見学する光景がよく見られました。(周りは田んぼだったので農道に人だかり)

地元の身近な高校生たちが、あの晴れ舞台でプレーするとあって小さな町はまるでお祭り騒ぎのような雰囲気に包まれました。

しかし嬉しい出来事の反面、まだ卒業生がいない学校だったことに加え、人口が少ない小さな町だったため、寄付金の集めには大変苦労したそうです。

甲子園球場までは、他県と比べて距離は近かったものの、それでも多くの予算が必要でした。幸いにも地域の住民や郡民、多くの企業からの寛大な寄付金が寄せられたおかげで、甲西大応援団は甲子園球場への出発を果たすことができました(送迎バスの数の多さに驚愕)

試合があった日は、人が消えたかのような閑散とした風景だったことを覚えています。

甲子園球場へ応援しに行くか、テレビに釘付けか、のどちらかだったのでしょう。町民限定でテレビの視聴率を調べたら、びっくりするくらい高かったでしょうね。

それほど田舎の小さな町にとって大事件だったのです。

【初戦】vs県立岐阜商(岐阜)

さあ、いよいよ源さん監督が率いる甲西ナインは大応援団を引き連れ、いざ甲子園大会の初陣へ!

━初戦(2回戦)は、春夏通算40回の出場(当時)で全国制覇4回を誇る古豪の県岐阜商戦。

1回表は守備の乱れが出てしまい2失点しましたが、すぐさま逆転に成功し追いつかれることなく逃げ切ります。

当時の滋賀県代表あるあるで「初回は浮足立ってミスして失点する」というそのままの展開になったものの、以後はしっかりと打線がカバーしてくれました。

1回裏以降の甲西は「超弱小県」というレッテルが貼られていた県勢らしくない試合で逆転し、めでたく甲子園初勝利!

もちろん県民は大歓喜しました。(勝ったので再び寄付金集め)

県岐阜商2001100015
甲西32020000X7
2回戦(甲)金岡ー奥村 本塁打:藤田(県)

【3回戦】vs久留米商(福岡)

続く3回戦では、一昨年のベスト4メンバーでもあるサイドスローの好投手を擁する久留米商(福岡)戦。

1・2回戦と連続完封している秋吉投手(久留米商→日産九州)は、甲西打線もしっかりと封じます。

互いに10回まで0点がズラリと並んだ緊迫した投手戦の中、11回に動きが。

疲れが見え始めた金岡投手(甲西→中京大)はついに先制点を許してしまいます。

重い1点がのしかかり、いよいよ後がなくなった11回裏の甲西の攻撃。

しかし今まで冷静で完璧な投球を見せていた秋吉投手は、勝利を意識してしまったのか突如乱れてしまい、2死1塁2塁の状況まで甲西に粘りを許してしまいます。

それでも久留米商の優勢は明らか。

一打同点になるか、の場面にまわってきたのが主将であり4番打者の石躍(いしおどり)選手(甲西→早稲田大)でした。

秋吉選手のナチュラルシュートの速球が内角をえぐり、それを避けるようにフルスイングした打球は詰まってしまい万事休す!…、

かと思われましたが、緩くセカンドの頭をギリギリ越える右前適時打に。

2塁走者代走の川井選手(2年甲西→青山学院大)の生還でなんと同点に追いつきます。

続く場面は2死1塁3塁、5番西岡選手(甲西→甲西町役場(現湖南市役所))の打席で甲西は奇策を演じました。

ヒゲの源さん奥村監督は石躍選手に盗塁の指示を出します。(サインもしくは伝令の場面、どちらで伝えたかは不明)

セオリーでは3塁走者がホームインすればサヨナラ勝ちの場面なので、危険を冒してまでの盗塁はまず考えにくい場面ですが…。(投手がランナーノーマークでない限り、通常盗塁はしない。秋吉投手はセットポジションでしっかりマークしていましたが。)

秋吉投手の牽制球のあとの第2球目に石躍選手は果敢に2盗を試みます。

捕手の送球はセカンドカバーに入った内野手のグラブには収まらず中堅手の方向に抜けてしまい、3塁走者の奥村選手(2年甲西→近畿大)がホームに生還。

あっという間の逆転サヨナラで甲西は8強に進むこととなりました。

この場面、久留米商の捕手は2盗阻止のためにセカンドへ投げる必要はなく、投げたとしても内野手が3塁走者を牽制するためにカットするのが定石。

しかし久留米商の守備陣にそれはありませんでした。

実は、源さん監督の作戦は石躍選手が塁間に挟まれている隙に奥村選手がホームを狙うという作戦だったようです。

まさに後が無いせめぎ合いの場面で、この一瞬の判断は現場に直面している選手たちにしか分からない部分もあったはず。

捕手も内野手も盗塁走者をアウトにすることができる、とあの一瞬に判断したのでしょうか。

3塁奥村走者の位置やその他の様々な状況を判断してあの結論に至ったのかも知れません。

もしくは、まさかの盗塁にただ頭が真っ白になってしまったのかも知れません。

後者の可能性に賭けた源さん監督の奇策は、見事ハマったわけですね。

秋吉投手は1回戦から数えて28回連続無失点という3試合連続完封以上の快投を見せてきましたが、途切れた回で苦しくもチームの敗北も決まってしまったのでした。

久留米商000000000011
甲西00000000002x2
3回(甲)金岡ー奥村

【準々決勝】vs東北(宮城)

準々決勝は大会屈指の注目投手、のちのハマの大魔神こと佐々木主浩投手を擁する東北高校との対戦。下馬評では断然東北高校有利、勝てば次戦はPL学園と分かっていたので、誰もが東北vsPL学園を想像していたに違いありません。

試合は、甲西が1回裏に先頭の高野選手が二塁打で出塁し、内林選手(2年)の犠打と奥村選手の右前適時打で1点を奪う展開となりました。3回裏にも高野選手が四球で出塁し、内林選手と奥村選手の連打で1点を追加し、主導権を握ります。(3回裏 東北0-2甲西)

「あれっ!?」まさかの展開に場内も騒然。

しかし、東北は4回表に反撃。四球をきっかけに適時打で1点を挙げ、さらに満塁で葛西選手(元阪神)の犠飛などで逆転に成功しました。(4回表 東北3-2甲西)

それでも甲西はひるまず、6回裏にチャンスをつかみ、ダブルスチールと安田選手の内野安打で同点に追いつきました。(針の穴をさすようなピンポイントセーフティバント。これは大きかった。)

7回裏には4番石躍選手の内野安打と5番西岡選手の適時二塁打で勝ち越します。(7回裏 東北3-4甲西)

東北も負けておらず、8回表に同点に追いつき、9回表には連打で勝ち越し点を奪います。(9回表 東北5-4甲西)

最後の最後でリードし、あと1回を0点に抑えれば東北の勝利が決まる。

前試合(対久留米商)に続き、後がなくなった甲西の攻撃が始まります。

ここで、強豪校相手に壮絶なシーソーゲームを演じてくれた甲西に対して観客の雰囲気が一変。

甲西アルプスの声援が球場に広がり、まるで東北がアウェーかのような雰囲気に変わります。

球場全体が、まさに甲西大応援団へと変貌した瞬間でした。

打順の巡りがよい甲西は、3番奥村選手の右前打と盗塁で一打同点の場面を演出。

さらに盛り上がってきます。

続く4番はチャンスに強い石躍選手。

同点打が期待されましたが、結果はファーストへの内野ゴロ。

あぁ残念!

かと思いきや、ここでまさかまさかの一塁手のトンネル失策で奥村選手が生還し同点に追いつくことになります。(東北の選手は、この雰囲気に完全にのまれていました。)

そして最後は、2死二塁から6番安富選手(2年)の見事な右翼線を抜けるヒットで試合に終止符を打ちました。

またしても逆転サヨナラという結果に。

2023年夏の甲子園、第105回全国高校野球選手権大会の準々決勝「仙台育英vs花巻東」戦で、9点差を追いかける最終回の花巻東の声援はまさにこの時と同じ。球場全体が花巻東を後押しし、前年覇者の仙台育英の投手や守備は明らかに影響を受けていました。応援の力がよく分かるシーンのひとつです。決勝の「慶應対仙台育英」においても、応援によって実力以上の力が作用していたことがよく分かります。

この壮絶な試合で、甲西は佐々木投手に対して14本のヒットと6回の盗塁を成功させ、チーム全体で“佐々木攻略”を成し遂げました。

後日のインタビューで佐々木投手は「甲西のコツコツあてにくる打線が嫌だった。監督から投手交代するよう促されたが断った。言う通りにしていれば勝っていたかも知れない。PL学園と対戦したかった。」と語られています。

 東北 0003000115
 甲西 101001102x6
準々決勝(甲)金岡ー奥村

【準決勝】vsPL学園(大阪)

奇跡を積み重ねて準決勝まで進出した甲西でしたが、創部わずか3年目のチームと「戦後最強軍団」との格差はあまりにも大きすぎました。

試合前の予想では、PL学園が明らかに有利。甲西の奥村監督は、選手たちに向かって「10点差以内ならウチの勝ちや」という言葉をかけましたが、試合は予想を遥かに超える展開となります。

PLは4回までに松山選手(元オリックス)や内匠選手(元近鉄)のホームランなどで11-0という一方的なリードを築き、5回には清原選手が今大会2本目のホームランを放って13-0と差を広げました。

PL学園は初戦で東海大山形に対して29-7という甲子園史上最多得点、さらに甲子園史上初の毎回得点試合となる試合をしてきたチーム。

同じ展開が脳裏をよぎります。

しかし、甲子園の観客たちは「ミラクル甲西」を熱狂的に応援し続け、6回表には甲西5番の西岡選手が桑田投手から2ランホームランを放ちます。ようやく甲西のスコアボードに「0」以外の数字が灯されることに。

一方、PLは5回まで毎回得点を重ねる強さを見せましたが、6回裏に甲西のエース金岡選手が無失点に抑え、初めてPLのスコアボードに「0」が浮かび上がりました。

甲西のアルプス・スタンドは2-13というビハインドにもかかわらず、お祭りのような賑やかさ。

しかし7回裏には清原選手がこの日2本目、今大会3本目となるレフト中段への弾丸ホームランを打ち、結果甲西は2-15で敗れました。

球場全体を味方に付けた甲西への応援虚しく、「戦後最強軍団」はそんな力にもビクともしませんでした。

最後に甲子園のスタンドからは、「ミラクル甲西」に対して大きな拍手が送られ見送られます。

公立校らしい地元の高校生集団がさわやかな風を残して、甲子園を去って行ったのです。

甲西0000020002
PL学園22342020X15
準決勝(甲)金岡ー奥村 本塁打:松山、内匠、清原2(P)、西岡(甲)

その後、PL学園は決勝戦で宇部商を破り優勝、KKコンビは有終の美を飾ることになりました。

滋賀県立甲西高校とは

甲西高校は、滋賀県南東部の甲賀郡に位置し、現在の湖南市となる地域に存在していました。当時の甲西町の人口は約2万9000人ほどで、地域に根差した存在として、周辺住民の子供たちが進学する中学校の延長ような学校。その控えめな存在感から、同じ滋賀県内でも「甲西高校ってどこにあるの?」という疑問がしばしば呈されるほど。

1983年(昭和58年)に学校が創立されると同時に、硬式野球部も発足しました。初年度はもちろん野球部のメンバー全てが1年生(19名)。まだ造成直後のグランドには石ころが点在しており野球ができる環境ではなかったそうです。最初の2ヶ月間は選手たちがほぼ毎日石ころを拾い集める作業に追われる日々が続いたと伝えられています。(PL学園のKKコンビが1年生から活躍していた頃、甲西1期生たちは練習や練習試合もままならなくグランド整備などに明け暮れていました。)

また資金面では、必要な用具が不足していたため、自らの費用でボールを調達したり、選手たちと共にアルバイトをして徐々に揃えていったという苦労話もあります。

最初の夏の県大会では、初戦でコールド負けを喫し、2年目も2回戦で敗退するという厳しい結果でした。しかし、甲西の1期生たちが3年生に進級した夏、名門・八幡商を決勝で破り、見事甲子園出場を果たすという快挙を成し遂げました。

ヒゲの源さんの指導

2年目の秋頃から急激に力をつけていく様子は、わたしも新聞のスポーツ欄をチェックしていたことから知っていました。

試合結果のスコアの下には、必ず「金岡ー奥村」というバッテリー名が記載されており、金岡康弘投手がエースとして登板し、ほとんどの試合を完投で投げ切るというスタイルが確立されていたことがうかがえました。

また、長打の記録欄にはいつも「奥村」という名前が載っており、「また奥村さんが打ったよ!」など、友人たちと一緒に喜びを共有していたことを思い出します。

その後、奥村伸一選手は「滋賀の怪物」として名を馳せ、その強打力はプロのスカウトをはじめ多くの注目を浴びる存在となりました。

奥村伸一選手
  • 近大→プリンスホテル
  • 大学時日本代表で中越えホームラン
  • 父・元文部科学副大臣の展三氏
  • 長男・展征は現役ヤクルト選手
  • 次男・真大は平安→独立リーグ

※奥村選手の家系は父の展三氏も含めてとんでもない野球一家!

ヒゲの源さんこと奥村監督は、金岡投手の球威は確かなものの、制球力に課題があったため、毎日300球もの投球練習を取り入れました。元々金岡投手は外野手出身でしたが、外野からの強力な返球を目の当たりにした奥村監督は、投手への転向を決断したという経緯があります。

チーム全体としても、200試合以上の練習試合を行い、実戦経験を豊かに積むことに尽力しました。打撃面では、右打者に対してはライト方向への流し打ちを、左中間と右中間への打球は2塁打と3塁打の差が出ることを考え、右中間・ライト方向への打撃を重視する姿勢を徹底的に教え込みました。(甲子園大会では要所で右打者の流し打ちが炸裂)

当時6番打者だった安富秀樹右翼手(右打者・2年)も、元は引っ張り専門の強打者でしたが、奥村監督の指導の下、流し打ちの名手へと変貌しました。ヒットを打っても引っ張ることは許されなかったとのことです。

結果、甲西高校は近畿大会に選出されるほどの実力を築いていきます。大会では当時の強豪、和歌山の箕島高校と接戦を繰り広げます。この試合が、選手たちに自信を植え付ける瞬間であり、雰囲気が一変したと言われています。

奥村監督が創部当初に部員たちに語った「3年で甲子園に行くぞ!」という言葉が、この頃になると現実味を帯びてきたのです。

実はこのチーム、中学時代から有名で近畿大会にも出場した実力者たちでした。中学から同じメンバーとしてずっとプレーしてきたことから、実戦練習の成果が徐々に結実する過程を共に歩んできたのです。

翌夏の大会では「創部3年目の野球部が古豪・八幡商業を破り、まさかの甲子園!」というような報道がありましたが、それは私たちにとっては”まさか”などではなく、むしろありえる結果として受け止めていました。

当時(1985年・昭和60年)の高校野球はPL学園・KKコンビの総決算

1985年(昭和60年)といえば、PL学園の桑田・清原(KKコンビ)が3年生で出場した最後の甲子園、第67回全国高校野球選手権大会。

1983年の夏から1985年の夏までの5季連続で、1年生の時から桑田がエース、清原が4番打者として活躍し、甲子園に強烈なインパクトを残しています。

KKコンビ時代のPL学園
  • 1983年 1年夏:優勝
  • 1984年 2年春:準優勝
  • 1984年 2年夏:準優勝
  • 1985年 3年春:ベスト4
  • 1985年 3年夏:優勝

圧巻の成績です!(⁠⊙⁠_⁠◎⁠)

1983年の夏は、3季連続優勝を目指す徳島の池田高校が大本命の大会、それを追う箕島、横浜商、中京、高知商、興南、広島商らが大会7強として優勝候補とされていました。

PL学園はその7強にも含まれていなかったのですが、準決勝でその池田高校を7対0で完全に粉砕してしまうんですね。

誰が見てもわかる時代が変わった瞬間

甲子園で1度もホームランを打たれたことのない、池田のエース水野雄仁選手(元巨人)から放った1年生桑田のホームランは、まさにその象徴のシーンでした。

その後から注目されるようになったKKコンビ中心のPL学園は黄金時代を築きます。

1985年という年は、高校野球自体が歴史上でもっとも注目され、盛り上がった時代だと言われています。

そんな時代の中心であった「KKコンビ」総決算の夏に「滋賀県立甲西高校」という無名校が旋風を巻き起こしてくれたのです。

準決勝の対戦では大敗を喫しましたが、桑田投手からホームランを放ち2得点を挙げた場面では「涙が出た」と奥村監督はインタビューで語られています。(準々決勝の東北戦でも泣いておられましたが…。)

超大物作詞家からのプレゼント

甲子園、高校野球が大好きだった作詞家の阿久悠さん。この大会で活躍した甲西高校のために心あたたまる詩を書いて下さっています。

甲西高校の正面入り口から入って、右手にあるセミナーハウスの前にこの詩が石碑として残っています。

85′ 甲子園の詩 阿久悠

甲子園には石ころがない だからプレイが楽でいい そんな気楽さが 奇跡につながったのかもしれない この最高の晴れ舞台で 思いきり躍動することが嬉しいと 素直に歓ぶ心が 無心という 得難い宝物になったのかも知れない やれば出来るという言葉が 空念仏でないことを証明した 甲西高校ナイン 猛暑の中のさわやかな風のように 陽炎の彼方の夢幻の夏の景色のように ミラクル甲西 だから甲子園は見逃せない きみたちが一つ勝つごとに それを我がものとして喜んだ球児が 何万人といたことだろうか 甲子園は遠いものだと 勝つことは困難なことだと はるかに遠い夢としている球児たちに 希望を与えたに違いない そして きみたち自身 猛烈な夏の猛烈な甲子園で 身をもって証明した青春は 一万ページの本を超える 多分 来年の春 初めての卒業式は誇りに満ちた明るいものになるだろう   

出典「甲子園の詩」

この翌年、甲西高校は2年連続で夏の甲子園出場を果たします。

昨年までグレー1本ラインのアンダーソックスは、甲子園2回目ということで2本ラインに新調し、開幕直後の第一試合に臨みました。

三沢商戦(青森)では奥村選手の大会第1号を含む7得点、そして石部投手の完封で見事勝利。

しかし、続く明野戦(三重)には敗れていまい、2回戦で姿を消すことに…。

それ以来、甲西高校は甲子園から遠ざかっています。

3本ラインのアンダーソックスを見れる日が来てくれれば嬉しいですね。

(2023年8月記)

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コメント

  1. 忍者甲賀 より:

    興味深く読ませてもらいました。
    懐かしい昭和の高校野球。いいですよね。

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